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野口五郎が駆け抜けた50年、音楽のこと…世界に一つのメモリアルアルバムとともに振り返る!

2020.06.03
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音楽
インタビュー
1971年にシングル「博多みれん」でデビューし、今年50周年を迎えた野口五郎さん。それを記念して節目節目の名曲をリレコーディングしたメモリアルアルバムがリリースされましたが、同時発売の「完全数量限定豪華盤セット」がものすごい内容になっています。CD、アナログLP、ドーナツ盤EP、カセットテープ、Blu-ray、DVD、テイクアウトライブに、特製立て掛けLPレコードフレームと写真集が豪華収納BOXに収められているという、まさに「これでもか!」という取り合わせ。この話から始まり、50年の幅広すぎる活動について様々な角度からお聞きしました!


「きっと世界でも僕ひとりしかできない」豪華セット!


──まず何よりも、今回のメモリアルアルバムの「完全数量限定豪華盤セット」についてお聞きしたいんですが、これ、豪華すぎませんか(笑)。

野口 豪華すぎますよねえ……。たぶん、一生に一度だと思うんですよ。デビューから半世紀やってきて、アナログの世界から……もっと細かく言うと、レコーディング技術にしても同録(同時録音。全パートを同時に一発録音すること)のようなものからずっと経験してきて、レコード、カセットと、いろんなものが出てきたわけですよ。音楽って、ハイソなお家では観音開きの豪華なステレオセットで聴くというのが当たり前でしたからね。

 

──ステレオって、家の中でも一番いい部屋にあるものでしたよね。

野口 そう、見せびらかすものでしたから。「どう? ウチ、ステレオあるけど」っていう。それがだんだんと、音楽を外へ持ち出して歩きながら聴くとか、そういうところにも自分は携わってきてたし。そういう意味で、一生に一度、それを一堂に集めたものを記念盤として出してもいいと思うんですよね。

──それこそCD、アナログLP、ドーナツ盤EP、カセットテープ、DVD、Blu-ray……と媒体だけでも一堂に集まっているわけですが、このアイデアはご自身から?

野口 avexの人が「例えばレコードでも出してみるというのはどうですか?」って案を出してきて、「だったら全部入れようよ」と。ま、MDはいいか、VHSも入れなくていいか、ということで、こうなりました(笑)。

──なるほど(笑)。その中に、キャリアの中で節目節目の曲を新たにレコーディングして収録されていますよね。改めて各曲と向き合って、どんな思いがありましたか?

野口 わりと初期の曲を中心に集めたので、例えばイントロが、必ずしも当時と同じ楽器じゃなかったなっていうのもあるんですよ。同じフレーズなんだけど、時が流れるとこうなるっていうのもあるよね、というのを自分でも感じました。リズムセクションやストリングスは自分でやっているので、余計に。この豪華盤自体、セット内容だけじゃなくて、収録されている中身も「こんなことをやるのはきっと世界でも一人しかいないよね」というものを全部詰め込みたいと思って、それができたと思います。

──余すところなく詰め込めましたか。

野口 本当に、これと同じことができるのは、世界でもいないと思います。控えめな僕なので、普段はそういうことをあまり言わないタイプなんですけど、今回は言っておこうと思います。

──「自信作」というのとは、また違うとは思うんですが……

野口 いや、自信作はいっぱいあるんで。その意味では普通に自信作です(笑)。

──中でもドーナツ盤EPにはデビュー曲の「博多みれん」が収録されています。50年経った今、あの曲に対する思いというのは?

野口 これこそ僕が言い出したんですよ。どうせならEP盤にデビュー曲と、現時点で一番新しい曲を入れましょうと。最初からヒット曲みたいな顔をしたらウソになっちゃうから。デビューは「博多みれん」っていう演歌だったんだから、それを入れましょうと。うそ偽りない人生を、ちゃんとそこに集約しましょうっていうことですよね。たった1枚のEP盤に、A面・B面っていう形で最初と最後の曲を入れることで、(両手を合わせながら)50年をピシャッとプレスしようと。中は見えないけど、そこには50年の時が詰まってると思っていただければ。

──A面を聴いてひっくり返すと50年経ってると。

野口 そうそう。ひっくり返す瞬間に、50年の時が流れるわけですよ。この50年記念盤、中身のあらゆるものにそういう意味合いがこもってるんです。

──DVDには各曲のレコーディングやMVのメイキング映像が収録されていますね。avex本社の社員食堂「THE CANTEEN」などでレコーディングされたようですが。

野口 普通はレコード会社のスタジオで録るものですけど、僕の場合は食堂とかテラスで録ってしまう。そういう人も、たぶんいないと思います。これも世界初。(笑)

──そうですね(笑)。

野口 アナログの時代から自宅にスタジオを作って、ミキサーとかいじり倒してやってたんですね。普通なら「えっ、そんな機材を食堂とかテラスに持ち込めるの?」って話じゃないですか。でも、運べるのは当たり前に分かってるんでね。僕には「それは無理ですよ」って言えないんです(笑)。「もしよかったら、一度持ってきましょうか?」と(笑)。で、そこで映像も撮ってしまいましょうということになって。音も一緒だし口もシンクロしてるし、CDと一緒に、一発で録ってしまいましょうと言ったら、「昔に戻るんですか?」って。いやいや、あの頃にこんなデジタル機器はないですから。

──「それしかできなかった」頃と、「そのやり方も問題なくできる」今の違いですね。

野口 で、「私鉄沿線」のレコーディングとMV撮影の時に、横のテーブルにコーヒーが置いてあるんですよ。スタッフの誰かがいれてくれたんだなあって思ってたら「じゃ、録りましょうか」と。「えっ、いくの?」と思う間もなくイントロが流れたんで、何となく座ってコーヒーを飲み始めて、歌が入るタイミングになったから立ち上がって歌って、終わったらまた座ってコーヒーを飲むっていう。これ全部、アドリブなんですよ。昔、僕が「カックラキン大放送!!」っていうバラエティ番組(1975年から放送)に出てた時は、全部台本通りでしたから、そんなのはあり得ないんですよ。ドリフターズの番組もそうでしたけど、別日に何度も何度もリハーサルを重ねて仕上げるんですね。全ての間を決めて、タイミングも全部決めてしまう。でも今は、僕のデジタル技術を駆使して、全部アドリブでやる。こんな面白いことないですよ! 「グッドラック」のMVを撮ってたカメラマンが、終わって「カット!」ってなった瞬間に「楽しー!」って言ってたんです(笑)。その瞬間に、「ああ、これで決まりだな!」と思って。ホントに楽しかったですから。


──どちらも経験されてこそですね。

野口 これだけ世の中がデジタルになってるじゃないですか。「ああ、野口五郎はアナログもデジタルも経験して、それを自慢したいのか」と思われるかもしれない。違うんですよ。逆にこの履歴が邪魔してるんです。僕は不幸なんですよ。

──というと?

野口 これだけ生きていれば当然、いろいろな経験もしてきました。今の若い子は最初からデジタルでしょ? そんな余計な方程式はいらないんですよ。僕は一度、方程式を通さなきゃいけないから、すっごく難しいんですよ。しかも途中で計算間違いしたりするし。直接デジタルから入れる今の子が、すごくうらやましいですよ。

──一度経験に照らし合わせてから入らないといけないと。

野口 実際、履歴を自慢したがる同世代の人を見かけたりもするんですが、僕はああはなるまいと思ってます。でもこうしていろいろ駆使してやれるのは、やっぱり楽しいですよ。


「聴くだけで体にいい音」DMVとは?


──今回のCDには、「DMV」という技術が入っているとのことですが。

野口 はい。DMVっていうのは、ディープ・パープル……何の略だっけ?



──「M」の時点で「パープル」じゃないんで、違うと思います(笑)。

野口 ああ(笑)。DMVは「Deep Micro Vibrotactile」の略で、「深層振動」のことなんです。その振動を使って非可聴音、耳では聞こえない音を入れ込む技術なんですが、これは非常に体にいいとされてる音なんです。今回のCDにはこの音がかなり入っています。例えばCDと同じ16ビットからハイレゾ音源などの24ビットに上げることで音の再現性がよくなると言いますが、これが入っていることによって、もしかしたらそれ以上の再現性があるんじゃないかというぐらい音がよくなると思います。
「倍音」といって、全ての音には元の音の2倍、3倍の周波数の振動音が含まれているものなんですが、今はこの倍音は全てカットされてるんですよ。でも非可聴音を入れることによって、この倍音が豊かに流れ出すという不思議な現象があるんです。それから、人間の耳の聞こえる範囲は20ヘルツの低音から20キロヘルツの高音までとも云われるんですが、一番下の20ヘルツ周辺には、人間にとってよい音がいっぱい入っていると言われているんです。MIT(マサチューセッツ工科大学)でも、40ヘルツの音がアルツハイマー病にいいという研究発表をしていますし、いろんな効果があると。それを今回入れているんですね。音楽とこの振動を一緒に入れるという今回初の試みに挑戦してみました。

──そうなんですね。それもご自分で研究されたんですか?

野口 50年ずっと歌ってきて、どうやったら自分の思いが届くかということを考えているうちに、そういうことも勉強したくなってきて。「昔の人はどうだったんだろう?」とか「何でストラディバリウスはいい音がするんだろう」とか、いろいろと調べたんです。昔、マイクがなかった頃は楽器の音が遠くまで響いたわけですよね。今はマイクがあるから近くまでしか響かない。その違いは何なんだろう。豊かな音って何なんだろうか、っていうことを考える。音楽をやっているから、いろんなことを追求したい。ピアニッシモの音を遠くに届けるにはどうしたらいいかとか。そういうことをいろいろ研究しているうちに、非可聴音にもたどり着いたんです。パワースポットにもそういう音がいっぱいあったとか、そういう不思議なことにぶつかって、いろんな大学の先生たちとお話ししているうちに、医師会の先生方と一緒に研究するようになってしまったというわけです。

──そのDMVの音は、聴いて分かるものではないんですよね。

野口 聞こえはしません。でもミキサーの人が、その音を抜いてみた時に「ダメだ、やっぱり入れよう」と思うんですよ。それほどの違いがあるというか、それぐらい他の音に影響するということですね。

──さて、そのセットとは別に、5月6日(GOROの日)には50周年配信記念シングルとして、「光の道」がリリースされました。コブクロの小渕健太郎さんが作詞・作曲されたもので、2月のSHIBUYA Bunkamura オーチャードホール公演で初披露された曲ということですが。

野口 曲ができたばかりの時に、我慢できなくて歌っちゃったんですけどね(笑)。1年半近く前かな、たまたま共通の知人がいて、小渕さんとカラオケスナックでご一緒したんですよ。僕もそういうところで歌うことはめったにないんですけど、お互いに歌うことになって。約30センチの距離で(笑)。その距離でお互いの歌を聴いて、「あっ、小渕さんに曲を作ってもらいたいな」と思ったんですよ。去年、オーチャードホールに僕のコンサートにも来てくださった時に「正式にお願いしていいですか?」と言ったら「ぜひぜひ!」という話になって。トントン拍子でしたね。

──歌詞の内容が、野口さんご自身の経験を辿ったものになっていますね。

野口 僕がデビューする時からの話をずーっとさせていただいて、そこから詞にしていただきました。僕には1枚の思い出の写真があるんですが、歌詞の情景が全くそれと一致していて驚いてしまって、僕は最初「その写真を見せたんだっけ?」と思ったんですけど、小渕さんは「見てない」とおっしゃるので、慌ててあとから送ったんです。僕が歌手を目指して東京に出てくる時に、岐阜の美濃の駅で、親父が中古で買ったばかりのカメラで僕が振り返ったところを撮った1枚なんですね。当時のカメラですから高級ですけど中古のおんぼろで、撮れてるかどうか分からなかったものが1枚だけ残ってて。その写真があることを僕は知ってたんですけど、そこに写ってる線路から、僕の歌手人生は始まったんだなと思ってて。でも今回、小渕さんの作ってくれた曲を聴いて、「その構図の外にも人生があるよね」っていうことを教えられた気がして、それがレールなのかなと。家族であったりファンの皆さんであったり、親戚の人、近所の人、関わった人みんな……自分の線路があって、もう一本線路があるっていうのは、支え合ってみんなが生きているんだなと。そういうことを思わせてくれたことで1枚の写真と1曲の歌があまりにもピッタリと合っちゃって、どうしてもそこで歌いたいと思って、MVでは岐阜まで行って歌ってしまいました(笑)。

──この曲が配信されたのは、ご自身で開発されたテイクアウトライブ(TOL=QRコードを使ったデジタルコンテンツ配信サービス。当日に今見たばかりのライブ映像を持ち帰ることを可能にした)形式ですね。

野口 そうですね。これも世界初ですね(笑)。

──50周年記念盤のセットにもTOL形式の映像が収録されています。このようなシステムを、アーティスト自身が手がけるのも珍しいというか、他にないことですよね。

野口 先のことを想像するのが好きなんですよ。これを想像してたのは12年ぐらい前だから、まだ世の中はガラケー全盛の頃でしたけどね。

──まるで音楽界の手塚治虫ですね!

野口 いやあ(笑)。自分の人生でそういうことができるっていうのはうれしいですよね。僕の人生って、「初」が多いんですよ。例えば、ツアーの機材やメンバーの移動を全てパッケージにしたのは、たぶん僕が最初なんですよ。



──そうなんですか?

野口 最初の頃は地方のバンドを使ったりもしていたんですけど、自分のバンドが決まると、メンバーも一緒に行くわけです。東北とか九州とか地方にツアーに行く時は、寝台列車なんですよね。するとある時、スイングビーバーズの大石恒夫さんというドラマーの方が泣いてたんですよ。どうしたのかと思ったら、車内に置いていたドラムに酔っ払いがオシッコをかけてて。

──ええーっ! それはひどいですね。

野口 そういうこともあるから、これは絶対にパッケージにした方がいいなと思って。楽器も照明も全部まとめて一緒に移動するようにして。それはたぶん僕が最初なんです。それから、やっぱりグローバルじゃなきゃいけないということで海外レコーディングしたり、レコードは出さないでカセットだけでリリースしたり。「音楽は家で聴くものじゃない。外で聴かないと」という意図だったんですが、当時はレコード会社から大反対されました。専用レーベルをレコード会社の中に作っちゃったりもしました。インディーズのはしりですよね。43年ぐらい前の話ですよ。若かったということもあって、新しいこと新しいことを、いつも自然にやってたんですよね。

──思いついたことを形にできたところがすごいですよね。

野口 そんなガキの言うことを、やらせてくれた周りの人たちがすごいなと思って。それがすごくありがたいですね。恵まれてたと思います。


いろんな人に影響を受け「幅広い道」だった50年間


──そんな歴史の積み重ねが50周年までつながったんだと思いますが、今からその50周年を振り返ってお聞きしているととても時間が足りないので……。

野口 振り返るだけで5年はかかりますよ(笑)。

──ですよね(笑)。なので、あえてこんな質問にさせていただきますが、この50年をバッと振り返った時に、一番の思い出としてまず思い浮かぶことというのは、どんなことですか?

野口 それは、ないです。ただ、これだけやってきたということが正直すげえと思います。誰にも負けない歴史だと思いますから。というのは、いろいろあるんでね。「これだけをやり続けてきた」というのではないので。「これだけをやり続けてきた」というすごさももちろんあるんでしょうけども、僕の場合はいろんなところでいろんな挑戦をしてきたので、幅広い道だったなと思います。歌ひと筋、これ一本でどうですか!というのももちろんすごいですけど、僕は映画もドラマもミュージカルも舞台も、コメディも怖いのも、ホモセクシャルの芝居も「ロミオとジュリエット」もやってきて……そうやっていろんなのをやってきたので、振り返った時に「すげえな」って思いますしね。

 

──音楽一つとっても幅広いですよね。

野口 最初は演歌ですからね(笑)。そこから、海外レコーディングではラリー・カールトンとつながったりとか。当時、彼はスタジオ・ミュージシャンのひとりでしたからね。デビッド・サンボーンとか、すごいミュージシャンたちとも演じれました。先日もブルーノート東京から連絡があって「ミュージシャンが会いたがってるから」ということで行ったら、デヴィッド・スピノザとスティーブ・ガッドだったんですよ。2人とも顔を見た瞬間にすごい勢いでハグしてくれて、大変でしたよ(笑)。そんな、世界でも超一流のミュージシャンたちが、向こうから会いたいと言ってくれるようなアーティストだとは、日本人は誰も思ってないんですよね。「ああ、俺って日本人には認知度低いんだなあ」って。

──いやいや、そんなことは全くないですけどね(笑)。

野口 でもホントにいろんなことをやってきてて、「楽しいなあ」って思うんですよ。

──それだけいろんなキャリアを重ねてこられて、「この人はすごい!」と特に強烈に思った方はいらっしゃいますか?

野口 音楽では、筒美京平さんですね。僕の師匠なんですけど、すごすぎます。誰も比較対象として名前を出すのもあり得ない、っていうぐらいの天才ですね。現代のモーツァルトです。あらゆる面で影響を受けっぱなしです。譜面が汚いところもね(笑)。京平先生は自分で分かったんでしょうけど、僕は自分で書いたものが分からないぐらいですから。

──そうですか(笑)。では音楽以外、TVや映画、舞台という面ではいかがでしょう?

野口 そういう意味では、TVの創成期の人たちって、皆さん尊敬する人ばかりでしたね。教わることばかりでしたから。クレージーキャッツの谷啓さん、植木等さん。ハナ肇さんは特に、地方も一緒に行かせてもらいましたけど、教わることが多かったですね。ドリフターズもそうだし。お笑いなんだけど、今の時代と違って人に「笑われる」んじゃなくて「笑わせる」んですよ。笑わせるタイミングというのは、一点しかない。そこを逃したら、もう失笑になってしまう。だからこそリハーサルを何度も繰り返すっていう、そんな時代でしたね。当時の人たちの笑いはすごかったし、だから歌もすごかったし。笑いに対してだけでなく、音楽人としてすごかったですから。



──クレージーもドリフも、それぞれ演奏もすごかったですよね。

野口 谷啓さん以上のトロンボーンって、日本にいないですよ。どんなトロンボーンも、あの人には敵わないですから。僕が知っている、スタジオ・ミュージシャンの中でトロンボーンでは日本でナンバー1という人も、谷啓さんの演奏を聴いてビックリしたと話してましたね。僕もビックリしました。あの人はすごいですよ。

──そんな人がトロンボーン専門というわけではないというところがまた。

野口 TVではそんなにやってないんですよね。それなのに、どれだけ練習してたんだろうって。楽器は練習してないとダメですからね。だけど、そこまでのトロンボーンの名手だったってことを知ってる人が少ないわけでしょう。そういう生き方をした先輩たちがいるんだから、それはそれでいいんだなあと思うし。

──ご自身の活動が幅広くなったのは、初期にそういった方たちとご一緒されたことが大きいですか。

野口 何でもできなきゃダメでしたからね。人を笑わすにしても、さっき言ったように「一点を逃しちゃダメ。あとは失笑だよ。そうなったらアウト」と教わりました。それを受けて僕は、「シリアスの向こうに笑いがある」とずっと思ってて。シリアスにはいろんなやり方があるじゃないですか。でも笑いは一点しかない。照明さんとかカメラさんとかがどう考えようが、その一点しかないんですよ。シリアスはみんなのいろんな考え方ややり方があって、だから話し合って作ることができるけど、笑いはそうじゃない。そういう意味では、すごくいい勉強をさせてもらったなと思いますね。

──「8時だよ!全員集合」だって生放送でやってたのに、金だらいが落ちて頭に当たるタイミングをミスすることはなかったわけですからね。

野口 そういうことなんですよ。全てが計算し尽くされてるんです。柱を持って、長さん(いかりや長介)の頭にガーンとぶつけて、「何だよ!」って振り向いた時に反対側をもう一度ぶつける。あれってちょっとでもズレたらおかしくないんですよね。外れても、かすっても失笑。まともに当たらないとおかしくないんですよ。タイミングを見てたら笑ってもらえないし、だから大変なリハーサルを重ねてたんですよ。ドリフのリハーサルにも呼ばれたことがあるんですが、真っ暗な中、誰も何も言わなくてシーンとしててね。そこから笑いを生むわけですから、やっぱりすごかったですね。

──さて、「これから」についても伺いたいんですが、残念なことにこの情勢の中、50周年ツアーも開催延期・中止が相次いでしまっていますが……。

野口 今は、この先に僕に何ができるだろう、僕にできることって何だろうと考えているところです。今は答えは出ないです。僕が50周年どうこうということよりも、その先をどう見るか、見られるかなんですよ。非常事態宣言が解除されたからと言って、すぐ元の生活に戻れるわけじゃない。そこには以前とは違う僕たちがいるわけですから。その時に何ができるか、そこに照準を合わせていきたいと思ってます。

──エンターテインメントが置かれている状況としては、東日本大震災後に似ている部分もあるかと思うんですが……。

野口 どうなんでしょう。僕はそうは思わないですね。あの時はボランティアとか慰問が効果的でしたが、今回は世界中の人たちが同時に味わっている恐怖で、たった一つのものと戦っているわけですから。どこかの国の大統領は「WAR」、戦争だと言っていたわけで。その状況で、今は慰問とかボランティアはあり得ないじゃないですか。「今こそ音楽で」どうのこうのという人たちもいますが、「今はどうなんだろう?」と、僕は思います。

──今は「その先」ということですね。では、最後の質問をさせていただきたいと思います。あらゆるところで聞かれていると思うんですが……こうして実際にお会いしても、本当に変わらずお若いですよね。その秘密はどこにあるんでしょうか?

野口 いやいや、そんなことないですよ(笑)。でも、もしそう見えているとしたら……DMVの効果かな。

──なるほど! そのためにも50周年記念アルバムを聴くしかないですね。ありがとうございました!

撮影 長谷英史

New Album
『Goro Noguchi Debut 50th Anniversary ~since1971~』

 
2020.06.03 on sale


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高崎計三
WRITTEN BY高崎計三
1970年2月20日、福岡県生まれ。ベースボール・マガジン社、まんだらけを経て2002年より有限会社ソリタリオ代表。編集&ライター。仕事も音楽の趣味も雑食。著書に『蹴りたがる女子』『プロレス そのとき、時代が動いた』(ともに実業之日本社)。

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